
愛は神から始まる ヨハネの手紙Ⅰ 4章7~12節 2025年5月18日
主日礼拝(朝・夕拝)説教 「愛は神から始まる」
聖書―ヨハネの手紙一4章7~12節
(はじめに)
前にもお話ししたかもしれませんが、私が幼いころ、家の玄関の棚に、聖書の言葉が書かれた木彫りの壁掛けがありました。そこには、「神は愛なり」という言葉が書かれていました。「神は愛なり」。これは、文語訳聖書の言葉です。今日お読みした聖書の中では、「神は愛だからです」(8節)という言葉です。
神さまという方は、愛の方。その壁掛けを通して、神さまは、私に語りかけられていたのだろうと思いますが、まだ、私は子供の時でしたから、よく分からないまま、何か立派な文字が書かれている、彫られている、としか思いませんでした。それからずいぶん後になって、神さまのこと、愛のことを知るように、分かるようになりました。「何事にも時がある」(コヘレト3章1節)ということですね。
(聖書から)
今日の聖書の言葉を読んでいきましょう。7、8節には、このようなことが書かれていました。
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
ヨハネの手紙を書いたヨハネ、この人は、イエスさまの弟子の一人であったヨハネと言われていますが、「愛する者たち」と呼びかけています。この言葉から、ヨハネは、この手紙を愛をもって書き送ったことが分かります。そして、この「愛する者たち」という言葉には、もう一つの意味が込められていると思います。それは、「神さまに愛されている者たち」ということです。私たちが、イエスさまのことを人々にお伝えしていく、お知らせしていく時も、このことをいつも意識していきたいと思うのです。あなたは神さまに愛されている。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」。ヨハネは、このように語りました。この手紙の送り先というのは、おそらく、どこかの教会だと思います。ですから、ここで「愛する者たち」というのは、その教会の人たちのことでしょう。ヨハネは、その教会の人たちに「互いに愛し合いましょう」と言っています。教会というところは、互いに愛し合うところなのです。
ある時、イエスさまのところに、神さまの教えの中で最も大事なものは何ですか?と尋ねてきた人がいました。イエスさまは、こう答えられました(マタイ22章37~40節)。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
イエスさまは、二つのことを示されました。一つは、神さまを愛すること。もう一つは、隣人を愛することです。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」というのは、聖書は、この二つの掟に基づいている、ということです。神さまを愛すること、隣人を愛すること。このことに基づいていない教え、掟はありません、ということです。そして、隣人を愛するというのが、今日の聖書で言われている「互いに愛し合う」ということです。
今日の聖書に戻ります。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」。「愛」という言葉が、今日の聖書個所には何度も出てきますが、これは、一般的な愛のことではありません。神さまの愛が言われているのです。「愛は神から出る」とありました。私たちが、聖書を読み、神さまのことを知らされていく時、気づかされることがあります。それは、私たち自身には、愛はない、ということです。でも、そういう私たちが、神さまから愛されている。神さまから愛を与えられているのです。
「愛する者」とありました。私たちは、神さまの前に立つ時、自分には愛がないことを知ります。でも、そういう私が神さまから愛されている。神さまから愛を与えられている。そのことを知る時、私たちは、「愛する者」として生きることができるのです。神さまを愛する者、隣人を愛する者として生きることができるのです。
信仰生活を何年歩んできても、私たちは、愛について考えると、悩みます。「何と自分は愛の乏しい者だろう」。人間関係の葛藤、もつれなどあると、自分の愛のなさに何度となく気づかされることがあると思います。その時、私たちは、繰り返し、繰り返し、このことを思い起こすのです。この私を神さまは愛しておられる。私が人を愛せなくても、愛さなくても、そういう私にも関わらず、神さまは私を愛しておられる・・・。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
どうして、神さまがこの私を愛しておられるのか?どうして、そのことが分かるのか?今お読みした言葉が、そのことを示しています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました」。神さまは、ご自分の大切な独り子であるイエス・キリストをこの世に、つまり、私たちのところにお遣わしになったのです。そして、イエス・キリストによって、はっきりと私たちに分かるように、ご自分の愛を示されました。どういう愛でしょうか?もう皆さんはよくご存じだと思います。イエス・キリストは、私たちが罪によって死に向かっていたのに、私たちを罪から救い出し、生きることができるように、ご自分が私たちの身代わりになって十字架にかかって罪をお受けくださったのです。
私たちは、イエスさまの十字架を思い起こすのです。この私のために命をささげてくださった神さまの愛を思い起こすのです。そのことは、続く10、11節でも語られています。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
イエスさまの十字架によって示された神さまの愛。このことをいつもおぼえていたいと思います。この愛に応えて歩む。それが、信仰生活です。神さまの愛に応えて、私も神さまを愛する歩みを、隣人を愛する歩みをしていこう。皆さん一人一人の信仰生活が、神さまの愛に根ざした豊かなものとなりますようにお祈りします。
(むすび)
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
神さまを見た者は誰もいない、とありました。どうしたら、神さまを見ることができるでしょうか?もちろん、この目で見ることはできません。でも、心の目で見ることはできます。そのことが、このように語られていました。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。私たちが互いに愛し合うなら、そこに神さまを見ることができる、そこに神さまがおられることを知るのです。
「神はわたしたちの内にとどまってくださり」とありました。ある牧師先生は、このことについて、こういう説明を書いておられます。「神の住まいは、キリストの愛に生きる「交わり」」(遠藤勝信牧師)。私たちが、互いに愛し合うなら、そこに神さまは住んでおられる、ということです。その先生はもう一つ、大事なことをお話しされています。「私たちの人生は、神の愛を完成させるため」。これは「神の愛がわたしたちの内で全うされている」。この聖書の言葉を受けて、言われたことだと思います。私たちの人生。それぞれの人生の目的、目標があるでしょう。いろいろな人生の目的、目標があっていいと思います。しかし、私たちの人生の土台に、このことを大事にしていきたいと思います。私たちの人生は、神さまから与えられた人生であり、神さまの愛を完成させるためのものということです。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまは愛です。神さまは、み子イエス・キリストをお遣わしになり、その愛をはっきりとお示しになりました。イエス・キリストは、私たちを罪による滅び、死から救うために、ご自分の命をささげてくださいました。今、主は見えませんが、私たちが愛し合うところにおられます。私たちの教会、また家庭、職場、どこにおいても、神さまの愛に生きることに努め、神さまの愛が、神さまご自身が表されますようにお願いします。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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